北海道の山の中、寒いところで生まれ育った私は、なぜか海の見える暖かいところでのんびり暮らしてみたいと長年思い続けておりました。
また、ずーっと同じことをやって定年を迎える前に、もうひとつくらい何かちがった仕事もしてみたいなどとも思っておりました。
でも、ただそう思っていただけで、そんなことは夢のまた夢、進んでそこへ踏み出す勇気などまったく持ち合わせてはいなかったのです。
そんな折り、ついに私の会社も世の不況には勝てず今期は少々赤字との予想で、世にいう構造改革すなわちリストラをやることになったのです。その一環として特別転進優遇制度というのを実施し、希望退職者にはそれなりの割増退職金などを出すことになりました。
別に割増退職金に目がくらんだわけではありませんが(ほんとは少しくらんだ)、周りの人が一人また一人と、「おらやーめた!」というのを聞いているうち、眠っていた「海」「あたたか」「のんびり」などという、えもいわれぬ甘美な言葉が頭の中を駆け巡りだしたのです。
今回の特別転進優遇制度の実施は別に強制的なものでもなく全くの自由意志での応募でしたので、若いとき夜を昼についでがんばって得た今の給料を捨ててまで無理に応募する必要はさらさらなかったのですが、むらむらと起こった夢の誘惑についに負けてしまいました。
もう少し言えば、一生にもうひとつくらい別の事、できればサラリーマン以外のこともやってみたいという希望、ちょうど担当していた古いタイプの製品もそろそろ終わりに近く今やめてもあまり迷惑はかからないという安心感、そしてもしサラリーマンを続けるならば、今人を減らしたいという会社より人がほしいという会社の方がおもしろそう、などとも考えました。
ただ私の名誉のために、決して割増退職金などというお金の誘惑に負けたのではないことだけは、あえて再度強調しておきます。
結局4百数十人いた工場の人の内百人以上が応募したと聞きますが正式な発表がないので正確な数字はわかりません。でもほぼ間違いない数字のようです。今私のいた工場は仕事がかなり減ってきています。今後さらに減るという話もあります。残る人にとっても、仕事は何でもやります、転勤ならどこへでも行きますという覚悟がないと続けられません。話が決まってからは残る人たちと、どっちもたいへんだなー、でもお互いやれるだけがんばろう!と誓い合う毎日でした。
退社が決まってからは何とかやりかけの仕事にけりをつけるのと、残る人へ仕事の引継ぎなどでめいっぱいの日々。ふだん仕事をしない私もずいぶんがんばりました。でもなぜか心は晴れやかでした。こんな幸せな気持で仕事をしたのは入社して29年来初めてのことでした。
最後の一週間、もう会えないかもしれない人たちといろんな話をしました。おりしも今年は桜が早く、このころちょうど満開でした。「さまざまの事おもひ出す桜哉」とは芭蕉の句ですが、毎年桜が咲く頃にはきっとこの日のことを思い出すでしょう。
そして3月29日は出社最後の日。せめて机くらいはきれいにしていこうと片付け始めると思い出の品や書類があちこちから出てきます。でも涙をのんで処分しました。終わり間際になって挨拶まわりに行きましたが、とても胸がいたんですべての職場をまわりきれませんでした。
ひとしきり職場の人と別れを惜しんで家に帰ると、な、何と、食卓には私の大好きなお刺身さんと、その上ワインまで並んでいるではありませんか。そして女房がワインをついで、「おとうさん、ごくろうさん」と一言いってくれました。私は必死にさりげない風をよそおってはいましたが、あやうく涙がどばーっと出てしまうところでした。家族というのはありがたいものです。
...でこれからどうするのかというと、実をいうと、全く、何にも決まっておりません。
おいおいこのホームページでお知らせします。半年先か、一年先か、乞うご期待!
330日間失業保険が出ますので、次の仕事を見つけるまで何とか食いつなげるでしょう。
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